いよいよ太平洋戦争(大東亜戦争)への階段を駆け上がるのがこの章である。
日中全面戦争が本格化したのは盧溝橋事件から2ヵ月後に起きた第2次上海事変からである。
吉田昇平は心の傷を癒そうと上海支局への応援勤務につくが、そこで見たものは日中の壮絶な戦いであった。増派部隊によって日本軍は勝利したが、戦争不拡大の政府方針を無視した現地司令官の判断は、日中戦争を泥沼の状態へと引きずり込んでしまった。国民政府の首都、南京の攻略を命令した現地指揮官は10万の兵をもって南京へ進軍。その背後には中国全土を傀儡化する計画が見え隠れしていた。
そして南京大虐殺は本当にあったのか。現地を取材した記者は涙ながらに語った。
日中全面戦争が小康状態になると、吉田昇平に東京本社への転勤命令が下った。激動する世界の主役がヨーロッパに移ったからだ。北京で知り合った女性と結婚した昇平は2人で東京へ戻る途中、新京に立ち寄って満州国総務庁副長官の岩谷と面会した。そこで語られたのはナチス第三帝国の野望、日本の進路に暗雲が漂う日独伊三国同盟締結への疑義であった。
敵同士と思われたドイツとソ連。その両国が1939年(昭和14)8月、電撃的に不可侵条約を締結するという超然的な行為に出た。日本にとってはまさに青天の霹靂、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢・・・」という名文句を残して総辞職してしまった。が・・・。
1939年(昭和14)9月1日、ドイツがポーランドに攻め込んだことで第2次世界大戦が勃発した。ドイツはポーランドをソ連と分割することでその場を切り抜け、ベルギー、オランダ、フランスと 次々にヨーロッパ諸国を席巻、一躍ヨーロッパの覇権を握りかけたのである。
1940年(昭和15)7月、第2次近衛内閣が成立して松岡洋右が外相に就任すると、親独派の松岡はドイツの快進撃を絶対視、同盟の必要性を執拗に訴えると、瞬く間に三国同盟は締結されてしまった。しかし、その結末は・・・。
1941年(昭和16)6月22日、ドイツは300万の兵力をもって突然ソ連に侵攻した。バルバロッサ作戦の開始である。ドイツの暴挙で独ソ不可侵条約は完全に反故になり、世界はこの段階で真っ二つに分かれてしまった。
そして、日本の選択した道は・・・。
東京合同新聞社の記者たちは、戦争に行き着く過程で起きた様々な事件を考察して歴史の真実を究明する。どうして日本は太平洋戦争に突入してしまったのか。
それは種々の要因が複雑に重なり合ってのもの。しかし、避ける道はあったはずだ・・・。
今、歴史がすべてを語り出した。
